頭上には、突き抜けるような青。
  すがすがしいまでの冬晴れであった。
セーターを二枚も重ねて着て、手袋とイヤーマフラーまで親に用意させたというのに、季節に違わぬ刺すような寒さは六月を追い立て てくるようだった。
 普通のマフラーも用意してくるべきだったか。一人後悔する。冬の学校は、外にいる間とはまた違う寒さに悩まされる。本当にまとわりつくようだなと、毎年毎年気温に悪態をつきたくなるくらいには辟易していた。毛糸越しに手のひらをこすりあわせて、日の差し込まない階段をゆっくりと上った。
 案外、日々は何事もなかったかのように過ぎていくものなのだな、とぼんやり実感する。あれからしばらく経って(そうならないわけがないだろうとわかってはいたけれど)いつものように冬がきた。毛布の中で一生を過ごしたくなる感覚は、六月の体にしっかりとしみこんでいるのを思い知らされた。

 同じように寒さをかみ締め、この辛さを共有できるような友人でもいてくれればいいのだろうが、あいにく彼にはいつも通りの友人あるいは知人しかいない。薄暗い空間に、白い息がぼうっと立ち上る。足を止めて、それが空間にゆっくりと溶け込んでいくのを眺めてから、またのんびりと階段。屋上に続く重い扉に手をかけた瞬間、後頭部から視界にめがけて鈍痛と、それから星が何回か散った。
 乱暴といえど、どうしても許せないって程じゃあないんだ。大目に見てやろうじゃないか。後ろから、頭に衝撃、というシチュエーションと関連付けられているかのように、六月の頭にはいわゆる事なかれ、な思考が浮かんでくる。
 思考が形をもとうとした瞬間には、すでに振り向いて大変苦い表情を浮かべてしまっている自分を、ちょっと叱ってやりたくなると同時によくやったと言ってやりたい気持ちでもある。暴力に暴力で返したくはないけれど、不快に思うのも確かだし、ようは空尾はいっぺんはたたかれる側の気持ちを考えてみればいいのだ。痛みと同じ感覚は与えられないものの、自分の感情を顔に出してそっと空尾にぶつけてやる。ほうら、ちょっと慌てている。
「最近おまえ、よくそういう顔するようになったよなあ」
「そう? ……まあ、気にしないでよ」
 空尾はいろんな色を混ぜ込んだ、よくわからなくてやったら長いマフラー(試しに空尾、六月、満で三人巻きをやってみたら出来てしまった代物である)を首に巻いている。何重もの層ができ、鼻の下までを覆うそこから、最低限口が出るようにマフラーをずらしていた。
 にっと屈託なく笑って見せて、そのまま早足で階段をかけあがって、扉の前にいる六月と並ぶ。
「とっても寒いんだろうなあ、あんまり出たくないなあ」
「見晴らしのいい所で食いたいって言ったのお前じゃなかったっけ」
 あーあー言いながら、六月は空尾の発言に反応することなく、今度こそ屋上に続く扉のノブを捻る。
「うおっ」
「……っ」

 少しの間もなく吹き込んでくる冷たい風に、六月は、思わず扉を閉めてしまう。寒いのが嫌いだから。屋上に来るのがこれで何度目かになって、その回数分先ほどのように扉をすぐ閉めてしまっていることも自覚はしていた。

 おいおい、と目で語る空尾と視線がぶつかる。
「仕方ないよ、寒いんだもの」
 六月がやれやれ、と首を振ってみせたら、珍しく鼻でそれを笑われる。
 挨拶がわりに頭をはたかれるよりなぜだかちょっと堪えた様子で六月は、改めてノブに手をかけている空尾を見つめていた。
 屋上の中でも、比較的風を感じにくい影の部分に二人並んで腰を下ろす。六月が膝の上でいそいそと弁当を広げていると、空尾が手早く準備していたはずのコンビニで購入したおにぎりにも手を付けず、心ここにあらずといった具合に何かを仰ぎ見ていることに気が付く。
「どうしたの、それすごく頭が悪そうに……いやなんでもない」
「そこで切っても意味ねーだろうが!」
 くわっと一瞬でこっちに怒鳴ってくる辺り、完全に気が抜けていたわけではないらしい。一瞬ぐるる、と犬のような警戒の仕方をしていた空尾だったが、ぴゅう、と音を立てて冷たい風が吹くと、六月と二人で身震いしてから、また気力のない瞳で空を見上げるのだった。
「あのさあ、俺たち、あんなことがあっただろ」
「あんなことって?」
 我ながらしらじらしいなあと六月は口を動かしながら心の内で、小さく思った。空尾が何を言いたいか、ちょっとかもしくはそれ以上、分かっているはずなのに。
「だからよぉー……屋上だったろ、帰ってきたの」
「……ああ、そういえばそうだね」
 しらじらしいふてぶてしい。こうまでして空尾に喋らせて自分に何の得があるのだろうか。いや、もしくは、多分、無意識に、触れないように――――……。
「だっていうのに、俺たち、なーんも変わらないだろ。ほんと、ただ帰ってきただけって感じで」
「何が言いたいの?」
「実感が無かったんだ。あの校舎で会ったあいつらの気持ちも、俺たちはわかってやれてな いんだ」
「……そうだね。でもだからって、どうしようというの? 僕たちに何かできるとでも?」
 知らず知らずのうちに、挑発的な口調になっていることに気付いて、六月は一瞬で口をつぐんだ。弁当の下にしいている、簡素なチェックの布が風で小さくはためいている。
「でも、話を聞いてやるだけでもいいんだって奴もいたろ。それ以外にも、きっと、何か…………」
「自惚れちゃいけないよ。僕たちは、僕たち自身が思っている以上に、他人に対して無力だ」
 言いながら六月は、ああこれは決定的だなあ、と、内心ひどく後悔していた。
 その言葉をもろに受け取った空尾は、一瞬何か言いたそうに口を開いて、怒りの色をあらわすように眉根をきっと上にあげていたが、すぐにその表情は覇気の無いものに変わって、また力なく空を仰いだ。おにぎりの封を破る音と一緒に、六月の後悔も空に溶けていく。

 あの日、あの事件以来。
 六月は、感情のコントロールが以前に比べて少々下手になっていた。
 反転してしまった――と形容するのが正しいのか確かめる術はもたないが、あの校舎から戻ってきてから、前よりストレートに物事を言うようになった。それでも人と比較してみると十分足りない方ではあるが、六月にとってみればそれは異常ともいえることで、それはもう半端ではない焦燥を抱いた。
 自分が自分ではない、自分の思う通りに自分の感情が動かない、といったことで慌てるのもまた、自分らしくない、と重ねて落胆することになるのだが。
 空尾はそんな様子を間近で見てきて、六月の焦りも直といっていいほどに感じている。友達だからこそ、どうにかしてやりたいが、他人の心の問題なんて自分なんぞが深く踏み入ってしまっていいのか、とまたこちらもこちらで頭を抱えていた。
 こんな形で生じる壁に、空尾以外の六月の貴重な友人たちも、往々に危機感にも似た不可解さを抱いていた。満は聡明すぎる故に、六月との軋轢を懸念して踏み込めずにいる。杏子は、それこそ下手を踏んで六月に嫌われでもしたらという恐怖のせいで、他の二人と同じような状況になっている。
 そんな彼らを見ていて何も気が付かないほど六月も鈍感じゃなくって、やっぱりそれに申し訳なく感じるシーンが最近増えてきて、それでまた……という繰り返し。
 中学生時代、思春期らしい思春期もこなかったというのに、今さらなんだというのだ、これは。正直なところ歯がゆいし、おまけに若干不愉快という以外に言いようがない。幸い、あれから空尾とは気まずくなるなんてこともなかった。ただ、その場をごまかすように力なく笑ったら、向こうも同様にはにかんだことが気になるくらいだろうか。
 叱り飛ばしてほしかったのに。


「坂原、元気?」
 掃除の時間、廊下でだらだら昨今のことを考えながら箒を動かしていると、後ろから聞きなれた声がかぶさってくる。そのまま振り向くと、ぎこちなさそうな、居心地悪そうな、何とも言い難い表情の荻が立っていた。あれ、と首をかしげる。
「うん、元気だけど――ねえ、掃除はいいの?」
「ああ、今、ゴミ捨ての帰りなの。で、あんたがぼーっと突っ立ってたから話しかけてあげようかなって」
「失礼だなあ……」
 彼がついでに「まあ、そこが荻の荻たるゆえんだよね」などと付け足してやると、これがまあ珍しく怒らない。そういえば、あの件以来はじめてこんなやり取りをしたかもしれない……と、それほど自信のない海馬を回転させてふと思う。よくよく見てみれば、怒らないどころか、心なしか先ほどよりも表情が生き生きしているうえに、なんだか嬉しそうだ。
 えっ、荻までおかしくなってしまっていたというのだろうか。そんなに鈍感なつもりでもなかったけど、もっと目を配っておくべきだったんだなあと睦月が手前勝手に考えていると、「あんたまたヘンなこと考えてるでしょ!」と、例のごとく怒りだした。ええっ、先ほどのは一体なんだったというんだ、僕の勘違いだったのか。六月はがっくり肩を落としそうになりながらも、荻の怒りをすらすらかわしながら掃除を早く終わらせるために箒を動かすことに専念していた。
 まだ何か言いたそうに、というか口を開いている最中だったのが、彼女と仲よし(だったはず)の女子数名が、荻の下の名前を高い声で呼んだかと思えば、それにつられるように当人の口はあっさり閉じてしまった。そのまま振り向きざまににっこりとした普段からはあまり想像のし難い笑顔を浮かべ、友人と思しき女子達に近づいていく。女子ってよくわからないなあ、とやっぱり未だに考えてしまう。埋まらない距離と、作ろうと思っている訳でもない壁が時期を重ねるにつれとんとんと出来ていく。
 それを飛び越えようとしている彼女の努力に、六月はいつごろ気付けるのだろう。誰にもわからないことだし、きっといつか荻がしびれを切らす日がくるだろう。その日を見届ける権利は、きっと当人達しか持ちえない。

 少しさびしそうな荻の背中を、とくに呼び止めるでもなく見送る六月も、何も思うことがないわけでもなかった。自分に対して気を使ってくれたらしい友人(もしくは知り合い)に対して、そこまで失礼な姿勢を取れるほど感情に乏しいじゃない。
 ただ最近、なんとなく、自分に対しての荻の態度が変わってきたのかも、という漠然とした感覚が、彼女と彼の壁をどんどん増やしていった。お互いが作ろうとしていなくとも、結局は取り除こうとしなければ増えていく一方なのだ。
 友達、あるいはそれに準ずる何か、を、減らしたくない。それだけは確かだ。自分のような浮いてる人間につきそってくれる奇特な感性の持ち主なぞ、そうそういないのだから。
 もし次の日また、話しかけてきてくれるようなことがあったら、たまには昼でも一緒に食べないかと誘ってみよう。
 六月は心内密かに、誓いのようなそれを立てるのだった。

 満と最後に話したのはいつのことだったか、今は一番忙しい時期に入っているらしい。空尾をつれて生徒会室を少し覗きにいったら、丁度というかまたも会議中で、会話をするゆとりもなかったのを覚えている。
 受験も控えているだろうに。
 六月は自分の少し先の未来を思うと、何も言えなくなってしまう。僕はたとえば、満のように……彼のように、とはどういうことだろう。
 僕は満の、何を知っているんだろう……。一日の終わりに暗雲のように立ち込める、非常に形の曖昧な不安は、実を言うとこの間から六月の中にずっと居残っているものだった。時折顔をのぞかせては、ひたすら焦燥感と不快感とを同じく落としていく。
 段々と暖かくなりつつある毛布の中で、未だざわつく心にそっと蓋をする。明日になれば、もしかすると答えが見つかるのかもしれない。青い意思、それすらも明日の兆しにできれば、と願わずにはいられないのだ。

 その晩六月は夢を見た。珍しく。普段は気が付いたら朝、といった具合で、夢なんてめったに見ないのに。
 でも、正直なところ、夢だったか危うい、というのが目が覚めてからの彼の見解だ。だって、縁起でもないじゃないか、あの日あの屋上で出逢ってしまった彼女が、自分の頭の中に現れているということになってしまうのだし。
「こんにちは、坂原くん」
 にこっとわざとらしい、悪意すら感じ取れるほどの笑顔で、黒い長髪の彼女が声をかけてくる。空間は不定形で、何もかもが安定していない。猫は手足がとれて天上をはっているし灯りは地に落ちている。赤は西で黒は南星、六月の瞳がぎゅっと縮む。その中ではっきりとあの日見た姿のまま自分の目の前で顕現している彼女は、一体なんなのだろう?
「何って、夢だと思いたいならそれでいいわよ。間借りしてるようなもんだけど、ね」
 何のためにここへ?
 ぼくの中へ?
「元気にしてるのかしら、と思って」
 そうか、君もか。
「やっぱり?」
 うんざりなんだ。僕は僕で、存在していようといなかろうと。君だってどうでもいい。
「嘘をつくのね……杏子ちゃんがかわいそう」
 同じことしか言わないのか。
 そうだ、僕は同じことを言われたはずなんだ。荻、荻?どうして荻が出てくるんだろう……。
「気付けないのなら、自分の心がわからないのなら、あなたは友達を想うより前に、もっと必死に生きてみるべきだわ。そんな無様な様子を晒しているようじゃ、この先どんどんからっぽになっていくだけよ。あなたはそんな、思春期じみた青臭い心情に支配されるべきではない人間だわ」
 ……僕の何を、何が、分かるというんだろう……。
「さあね、今日はたまたま学校から出れてね、その内別の奴らも、ってこれはまあいいわ……ねえ、今のあなた、本当に面白くないのよ。生きるべきだわ、本当の意味で」
 ……そう。
 …………そうか。
 ねえ、君の名前、きいていないんだ。
「次に会って、気分が向いたら、ね」

 さようならを言う暇もなく、朝がきていた。
 瞼を濡らす液体と、意味もなく嗚咽が漏れてくる。胸の中の空洞が、いつかよりずっと増したような、おかしな感覚だけがしっかり強く響いている。外はまだ暗く、日も出ていない。朝はまだ、やってこない。
 大好きで不可解な、あの現象たちは、結局のところ僕を覆い隠してはくれなかった。

 けれども、昨日よりは確かに、ちゃんと歩けるようになっているはずだ。